その生涯と宗教芸術
山崎弁栄上人(1859~1920)は、日本近代における最高の宗教思想家である。また、みずからの不断の宗教的実践を通じて、その宗教体験の世界は限りなく深められていった。
そして、その深奥の宗教体験がそのまま宗教的世界観を創造的に展開していった。まさに上人は近代において活躍した希有ともいえる偉大な宗教的天才であった。
また上人は、芸術的な才能にもめぐまれ、仏画や書等において無尽に豊かに宗教芸術世界を開いていった。
山崎弁栄上人は安政6年(1859)2月20日、明治維新に先立つこと丁度10年、下総国(現在の千葉県)手賀沼の畔、鷲野谷(現在は柏市に編入)の一農家に生まれた。幼名は啓之助といった。
父の名は嘉平、母はなをであった。父は念仏嘉平といわれるほどに念仏の信仰に徹していた。早朝、かれの念仏の鉦鼓(しょうご)(ふせがね━浄土宗では木魚のほかに鉦鼓をもちいる場合も多い)の音が近隣に鳴り響いていたという。
父嘉平は、「(徳川)家康公は陣中でさえ六万遍の念仏を称えたという。この嘉平も月に一日ぐらいは六万遍の念仏をつとめなければ」といって、毎月一回の念仏を休むことはなく、その日は万事を放棄して念仏に専念した。
母なをもまた、夫嘉平の信仰の影響を受け、次第に信心が養われ、念仏するようになった。
上人啓之助は農家の長男として生まれたので、やがて農事に励むことになるのであるが、それでも信仰深い家庭の中にあって、次第に上人の心のうちに宗教心は深められていった。
そしてそのような因縁で上人は宗教書に親しむようになり、また、仏画等を書くようになっていった。近くに真言宗の寺があり、そこでの宗教画の習得は後年の上人の宗教的な芸術活動への重要な契機となったことも考えられる。
上人は、十二歳の折、家の杉林に沈んでゆく夕日に三尊(阿弥陀仏と観世音菩薩、勢至菩薩の両脇侍)を拝んで感動し、その歓びを抑えることができなかった経験を後になって語っている。
そうした中にあって啓之助の心の中に次第に出家の願いが抑えられようもないほどにまでに高められていった。そして遂にその願いは実現せられてゆくことになるのである。
すなわち、父嘉平はかれの菩提寺である浄土宗医王寺住職に啓之助の出家の志を申し出た。
その住職はさらにその本寺で徳川家康の創設になる関東十八檀林の名刹の一つ、東漸寺に申し入れ、明治12年(1879)11月、東漸寺第五十世住職大谷大康老師を医王寺に請待して厳粛に上人の剃度式が行われた。
そして幼名啓之助は名も弁栄と戒名され、東漸寺に入寺、仏道修行に励むようになった。東漸寺における上人の修行は激烈を極めた。
後年、弁栄上人の高弟田中木叉は往時の上人について、
「毎夜、熟睡三時間の外は雑用に、学問に忙しく、貫くに念仏一行昼夜断え間なく・・・」
等と述べている。(「弁栄聖者御略伝」)
東漸寺での一年余りの修行の後、明治14年(1881、23歳)、正月、上人は歩行で東京に上京し、浄土宗大本山増上寺等で仏教の諸学を学んだ。
とりわけ駒込吉祥寺学林では浅草日輪寺(時宗)卍山(かずやま)実弁老師から『華厳五教章』を聴講するのであるが、その内容を単なる学解の分斉にとどめず、その真理の内容をそのまま主体的に実践した。
その往時を偲んで上人は、
「愚衲、昔、二十三歳ばかりの時にもっぱら念仏三昧を修しぬ。身はせわしくなく、事に従うも意(こころ)は暫らくも弥陀を捨てず、道歩めども道あるを覚えず、路傍に人あれども人あるを知らず、三千界中、唯だ心眼の前に仏あるのみ。」
の文を書き残している。
吉祥寺宿舎では学徒たちはいたづらに議論を戦わして騒がしいばかりであったが、上人は田端の寺から通学し、その途上も専ら念仏三昧に専念し、その際、「五大皆空唯有識大」(地・水・火・風・空等の一切万物が空になって唯だ心(識)だけの遍満の自証)といった境界が現前し、そこでは、ただ下駄の音のみがあって・・・」といった内容が経験されていたのである。
またその折の状況について、
「予(私)かつて華厳の「法界観門」によって一心法界を修す。行住坐臥に観心止まず。ある時は行くに天地万物の一切の現象は悉く一心法界の中に隠没し、宇宙を尽くして唯だ一大観念のみなるを観ず。
また、一日、道潅山に禅座して、
『文殊般若(経)』をよみ、「心如虚空無所住」(心虚空の如く、住する所なし)の文にいたって、心、虚空法界に周遍して、内に非ず、外に非ず、中間に非ず、法界一相の真理を会(理解)してのち、心、常に法界に一にせるは、これ平常の心念とはなれり。これ即ち宗教の信仰に所謂「光明遍照」中の自己なり、大円鏡中の自己なりと信ず・・・」
等の文がみられるが、それは禅の立場から云って大悟徹底がなされ、いわゆる「法界観」が成就せられていたのである。
しかしながらまた他方、上人には念仏三昧の実践が不断になされていた。
その修行の内容について、
「二十四歳の時に東京駒込の吉祥寺学林において、卍山(かずやま)上人の『(華厳)五経章』の聴講に列(つらな)りし時、田端の東覚寺に寄宿して吉祥寺に通う往復にも、口に称名を唱え、意に専ら弥陀の聖容を想い、もっぱら神(こころ)を凝(こ)らしけるに、一旦、蕩然として昿廓極まりなきを覚え、その時に弥陀の霊相を感じ、慈悲の眸(まなじり)、丹(たん)華(か)の唇等、その霊容を想う時、神心融液にして不可思議なるを感ず」
といった文面もみられるのである。
それらの体験を通じて、禅浄の対立以前の奥底への踏入が試みられていたのである。
このように上人は、東京遊学中、仏教学を学び種々の宗教的実践を重ねた。そして、やがて明治15年(1882、24歳)で、筑波山で二ヶ月間にわたる念仏三昧の修行がなされることになった。
その折のことを上人は省みての一書簡の中に、次のように書き記している。すなわち、
「二十三四の頃と覚え候。その入山修道せんとの動機は、その頃東京にて『華厳五教章」の講義を聞きて、教相文字上の事はわかりても、仏教の真理は三昧に入りて神(こころ)を凝(こ)らすにあらざるよりは、証入すること能わず。よって暫らく山に入れり。
常陸国(茨城県)筑波山麓より一里半ばかりが山頂より二丁ばかりの方に、立身石という巖窟あり。此処に在って凡そ一ヶ月、次に場所をかえて一ヶ月、身に纏うところは半素絹、食物は米麦そば粉などにて・・・・」
このようにして、上人は筑波山における、二ヶ月にわたる念仏三昧の実践を通じて大悟徹底していったのであった。この修行中、山上で昼は窟の中で念仏し、夜は巌の上で礼拝した。
その折の念仏三昧発得の証悟の内容を上人は偈に表わし、
「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念 一心専念能所亡 果満覚王独了々」 (弥陀の身心は法界に遍じ、衆生念仏すれば仏もま(還)た念じたまう。一心に専念して能所(主客)亡ずれば、果満覚王(阿弥陀仏)独り了々たり)。
すなわち阿弥陀仏が現前し、その宗教経験の世界が了々として開かれていったことが示されているのである。
この体験はその後の上人の宗教活動の原点となっていたことが考えられる。
明治14年正月、上京遊学して二年足らずの短期間ではあったが、以前と比して上人の宗教体験の内容は隔絶するものがあった。
この年(明治15年、24歳)11月、東漸寺第五十世静誉上人より浄土宗の宗戒の両脈が相承され、浄土宗の僧としての本格的な宗教活動が開始されることになるのである。
ところで、上人には「一切経」の閲読という年来の願望があった。
筑波山を下山してその秋、東漸寺に帰って暫らくして後、明治16年(1882、25歳)9月より明治18年6月にいたるまで足かけ三年、東漸寺からは三里ほども離れた浄土宗の寺院、宗円寺に籠ってもっぱら「一切経」の拝読に集中した。(宗円寺は埼玉県北葛飾郡吉川町三輪野江の飯島にある小庵である。)
「一切経」については法然上人が五回にもわたって読まれていたことが知られるが、弁栄上人もそれに従うものでもあった。
「一切経」とは東アジア文化圏において成立したエンサイクロぺディア(百科全書)そのものであり、その「一切経」を読んだ法然上人にしても、また弁栄上人にしてもかかる点から云ってまさにアンシクロぺディストそのものであった。
エンサイクロぺディアとはギリシア語に由来する言葉であり、エン(=イン、内に)サイクロ(円環)パイディア(人間形成)を意味している。
「一切経」もまたかかる全円的な知の集積(円環)から一つの文化の体系が展望されてくるのである。
それは、法然上人においても、また弁栄上人においても、宗教哲学体系の形成に直結に連なってゆくものなのである。
すなわち法然上人においては「選択本願」の体系として、そして弁栄上人においては十二光の体系としてである。
かかるアンシクロぺディストの系譜は、ヨーロッパにおいても展開せられ、フランス革命において近代という一つの新しい世界を実現していったのである。
それでも、多くのフランスのアンシクロぺデイストたちのそれは、雑然とした知の集積にすぎず、それを徹底的に批判してヘーゲルはみずから哲学体系の形成を意図するのである(『エンチュクロぺディ』(一八一七))。
が、それとても単なる人間的主観のいとなみにすぎず、法然上人においても、また弁栄上人においても、大円鏡たる如来智にもとづく、広大無辺な宗教哲学体系の展開が考えられるのである。
西田幾多郎は最晩年において「無限円」(すなわち円周ないし直径が無限の円)なる概念に到達するのであるが、まさにかかる円の無限性(すなわち仏教的にいえば、円が空であり、空が円となっているところ)に真のエンサイクロぺディアが成立しうるのである。
かかる点からいって弁栄上人の「一切経」閲読には真の意味でのアンシクロぺディ(エンサイクロぺディア)、すなわち哲学体系への展望を開いてゆく契機となるものがあった。
体系とは一切をみずからの内に包含するものであり、それは「外のない内」であって、かかる包括者(法界身)は阿弥陀仏そのものに他ならない。
また、かかる内容をみずからの内から展開した弁栄上人の宗教哲学体系こそが、やがて十二光体系の形成へと結実してゆくのである。
それはヘーゲルの哲学体系をも超えるものなのである。弁栄上人の「一切経」閲読にはかかる重要な契機が存していることが考えられるのである。
なお、上人の一切経拝読の間に、師僧大康老師の遷化があったが、その報に接した弁栄上人は、ただちに東漸寺に帰寺して、一百日間の報恩の別時念仏を修している。
そしてまた別時を終えて、宗円寺に帰庵して「一切経」は読み終えられた。
明治18年も初冬に入り、上人は東漸寺から下総(千葉県)習志野の五香(現在の松戸市)の地に居を移すことになった。
それは、恩師大康老師の果たしえなかった新寺善光寺の建立の志を継いでのことであった。
新寺建立のためとはいえ、それとても上人にとって、念仏三昧の実践を離れたことではなかった。
すなわちその間も不断に念仏三昧の実践はなされたのである。 建立の寄付はなるべく多数の人の仏縁をむすぶためのものであった。
単位を1厘(1銭の10分の1)におき勧募が進められた(一厘講)。また、それと前後して浄土宗本校(現在の大正大学)の設立のためにも募金活動に尽力された。
このようにして善光寺本堂は明治24年(1881、32歳)に完成した。
ただ、重要なことはこれら勧募もさることながら、むしろそれらを縁として多くの人たちへの念仏の結縁こそが上人の眼目であった。
そして、その際数多くの書画が施され、たとえば経文の細字による仏画等が書かれたりもした。
そしてまた、「浄土三部経」で弥陀三尊が、『華厳経』、『法華経』等で、釈尊の涅槃図等が、あるいは、また「一枚起請文」をくり返しつつ元祖法然上人像等の数多くの書画が書かれて多くの人たちへの結縁となっていった。
中でも米粒名号は最大の結縁となった。
一粒のお米の中に南無阿弥陀仏の名号を書き込み、それを頂いた人たちがその米粒の名号を読み「南無阿弥陀仏」と称えることが何よりの結縁のいとなみとなるという趣旨からである。
上人が指にお米をはさまれ、上人自身、南無阿弥陀仏と称えるうちに一粒一粒の米粒名号ができ上がってゆくのである。
随侍する三人がその米粒を紙に包んでゆくのであるが、それが間にあわないほどの早さであったという。
またその米粒には騎馬に乗った八幡太郎義家の像が画かれたり、また『般若心経』の経文が書かれたりもした。
上人にとって、名号を記入される米粒(ミクロコスモス)は巨大な大宇宙(マクロコスモス)でもあったのである。
ルネッサンスの頃、ヨーロッパで活躍したキリスト教の最大の宗教思想家ニコラウス・クザーヌスは、「最小なるものは最大なるものよりも小さくはない」(『知ある無知』(1440))と云っている。
しかし、上人においては、書画等において、それがおのずと実現せられていたのである。
ところで上人には出家する以前から釈尊への尊敬の念も厚く、出家後はインド仏跡への参拝の念も次第に高まり、その念願もやがて果たされることになった。
それに賛同し、援助する人たちの尽力もあり、インド渡航が実現した。
すなわち、明治27年(1894、36歳)11月、横浜を出航、翌明治28年2月下旬神戸へ帰国。
インドでは、釈尊が正覚されたブダガヤ、ニレンゼン河、また初転法輪の地、そして入涅槃のクシナガラ、また、祇園精舎等と巡られた。
帰国後、千体もの釈尊の模像を陶工に依頼して造られ、それを京都各本山や、また多くの有縁の人たちに贈られたのであった。
このような上人のインド仏跡参拝は往時としては希有ともいえる行動であった。
そしてそのことは、日本仏教の特色たる宗派仏教、いわゆる宗祖を中心とする祖師仏教の特色から直接釈尊に直結してゆく、新たなる宗教運動の展開の契機となるものでもあった。
弁栄上人の場合、どこまでも法然上人に連なりつつも、他方晩年になるにつれ釈尊そのものが限りなくクローズアップされていったのである。
後年、展開される弁栄上人の光明主義は何よりも釈尊仏教そのものであった。
一般の人たちにとって救済され往生してゆく極楽世界は最大の関心事でもあった。『阿弥陀経』はその極楽世界を詳述する経典である。
しかしながら、法要等において読経する僧侶たちはこの経をただ漢文のまま棒読みするだけで、それに接する一般の人たちは聾桟敷も同然であったのである。
そのために上人はこの経を訓読で示し、さらにその極楽の内容をイラストで示したのである。
現在、釈尊伝やキリスト教のバイブル等までもが漫画で表示されるようになっているが、弁栄上人は明治の時代も半ばの頃にすでに見事なイラストによる経典の出版を試みているのである。
いわゆる『阿弥陀経図絵』がそれである。
初版は明治三十年七月に刊行された。それは版を重ね数十万部にまで及んだ。そして、この『図絵』は多くの人たちの信仰のこの上ない糧となっていったのである。
また上人の伝道活動には新しい宗教音楽も積極的に取り入れられていった。
上人はオルガンはもとよりアコディオンの名手でもあった。そこにはキリスト教の賛美歌の影響もみられ、そればかりか実に宗教音楽は大乗仏教興起の時代、積極的に展開されていたものである。
弁栄上人においても音楽は宗教活動の上に決定的に重要な役割を果たしたのである。
『無量寿経』は光を説く経典でもあるが、またこの経典は音楽経典でもある。
そして、そこに展開する極楽世界は光の空間でもあるが、しかしまた、そこは超越的な音楽の鳴り響く空間でもあるのである。
たとえばこの経には「正覚の大音、響十方に流る」(上巻)の偈文がみられるのであるが、それは釈尊の正覚がそのまま十方世界に音声となって鳴り響いていることを説いているのである。
それは私たち凡夫の耳には聞こえてこないが、三昧の深みにおいて上人に鳴り響いていた音声が、そのまま上人の宗教活動の上にも音楽活動となってはたらいていたことが考えられる。
いわゆる、この「天上の音楽」(musica mundana)は、キリスト教的世界においても豊に展開されているものであった。
西洋音楽史上の始祖に位置づけられているピュタゴラス(紀元前六世紀頃の人)も、この天上の音楽を聞いていたことが伝えられているが、実に洋の東西を問わず、超越的な聞こえない音楽の鳴り響きが伝承されているのである。
その消息の一端は、たとえば上人の、
「アフリカの 山のおくにも 聞こゆらむ その風の音 般若波羅蜜」
といった道詠にもその一端をうかがうことができる。
明治四十五年は元祖法然上人の遠忌に相当していた。
九州の浄土宗大本山善導寺(福岡県久留米市)においても記念の法要が厳修され、弁栄上人もその法要に招せられた。
そしてこれが機縁になって九州に弁栄上人の結縁は広まっていった。そしてこの九州の地で光明主義が確立せられてゆくのである。
尚、光明主義の成立には、その教理の上からいって『阿弥陀経』中心から『無量寿経』中心の立場の転換が考えられる。
この転換はすでに明治三十年代の初期の頃から始まっていたのであるが、その転機の動向は上人の書簡等からもうかがうことができる。
そして今や『無量寿経』の中の「如来光明歎徳章」およびそこで展開される「十二光」が上人の哲学体系に連なってゆくのである。
そしてまた、新しい礼拝形式としての従来のものとは雰囲気を異にした『如来光明礼拝(儀)式』が次第に形成されてゆくことになった。
それは一浄土宗としての阿弥陀仏に対するレスポンスから、今や仏教もキリスト教も包含した絶対的一神教として阿弥陀仏へのレスポンスへの変革である。
そしてそれは十回近くにもわたる改訂を経て現在の『如来光明礼拝儀』が成立した。
それは宗派の対立の枠を超えて、全人類にとっての礼拝形式とさえいえるのである。
そこには、『新約聖書』に説かれる「山上の説法」や、パウロの宗教体験をも包含して━宗教経験の事実そのものにはもはや東西の区別もない━宇宙そのものの真理としての礼拝文になっているのである。
たとえば上人の『礼拝儀』の中における、「三身即一に在ます如来よ」における「よ」は、いわゆる呼びかけを意味する呼格である。
そこにはそのまま「天に在ますわれらが父よ」と祈るキリストに自身の祈りにおける「我と汝」の呼応関係が念仏三昧の世界においても展開せられているのである。
上人において阿弥陀仏と私たちとの関係が、仏教の世界において改めて「我と汝」(Ich und Du) の関係の躍動が考えられるのである。
そこには東西宗教の祈り(三昧)における根源的な出会いを通して新たなる祈りが創造的に展開されているのである。
ところで、そもそもかかる礼拝形式の結晶としての「礼拝儀」ないし「典礼」は実に文化そのものの形成の核をなすものである。
そのことはドイツ語の儀礼としてのKult がそのまま文化 Kaltun(culture)に連なっている点からも明瞭である。
紀元四世紀頃、ヨーロッパに侵入した未開にして野蛮なゲルマン民族たちは、やがてキリスト教的典礼にふれ、それを通して高度なフランス文明、ドイツ文明等を形成していったのである。
が、弁栄上人の『礼拝儀』の形成にも新しい時代の文化の創造にも甚深なる意味が考えられねばならないであろう。
弁栄上人にはその生涯にわたる宗教活動において無数ともいえる仏画や書等による、また新しい宗教音楽等による活動がなされた。
かかる上人の宗教芸術の活動の根底には根源的な「構想力」、ないし「想像力」が考えられる。
たとえば弁栄上人が画かれる阿弥陀仏(三昧仏等)はもちろん上人の心の内から創出されてくるものに相違ない。
その点ではヨーロッパの芸術的天才たちの製作してきた絵画や音楽と異なるところはない。
しかしながら西欧の芸術の近代化のプロセスにおいていわゆる人間の主観が固定化せられ、いわゆる主観主義に堕するにつれて、近代ヨーロッパ芸術はその根源(神)を喪失し次第に枯渇していったことが考えられるのである。
しかしながら上人は常に念仏三昧の中にあったのであり、芸術活動等において主観的な契機が考えられるとしても、上人は常にかかる主観の破られた地平、すなわち芸術活動の無限に湧き出る根源たる阿弥陀仏そのものからその創造活動がいとなまれていたのである。
そのことは上人においてくり返し引用されている『観無量寿経(像想観)』の中の一文、すなわち、
「如来はこれ法界身なり、一切衆生の心想の中に入る」
の文における「入一切衆生心想」が、実にそこから限りなく創造活動がいとなまれてゆく根源的な契機となっているのである。
念仏とは、そして、念仏三昧そのもののいとなみとしての芸術的な創造活動とは、不断の自己脱却に即しつつ、念々に根源者(阿弥陀仏=法界身)に直結し、そこからの心想への流入がそのまま人間の創造活動となっているのである。
芸術活動とは元来、決して単なる人間の主観のいとなみの次元にとどまるものではなく、かかる主観主義を限りなく超え出てゆくところにいとなまれてゆく行為なのである。
三木清も論じた「構想力」の問題も本来的にはかかる宗教的超越的な実践の地平と関わっているのである。
弁栄上人の縁にあった多くの人たちもかかる上人の芸術作品に触れることによって、実に阿弥陀仏のはたらきそのものに触れていたのである。
そしてそれぞれにみずからの信仰に目覚め、その信仰を深めていったのであった。
大正5年(1916、58歳)、上人は京都の浄土宗総本山知恩院における高等講習会(夏(げ)安居(あんご))に出講された。講題は「宗祖の皮髄」で、それは宗祖法然上人の道詠を中心に、その信仰の内奥にふれられたのであった。
さらに大正7年(60歳)、一遍上人の伝統を受け継ぐ時宗本山、当痲の無量光寺(現在相模原市)第六十一世法主となられた。
ただそれとても念仏を弘通せんとの念願からのことであった。
また無量光寺境内に将来の真の宗教家の育成を意図して、「光明学園(現在、相模原光明学園高等学校)を創設された。
上人は晩年、腎臓を病まれるようになっていたが、病身にもかかわらず休む暇もなく伝道活動は続けられたのであった。
そしてその伝道の途上、遂に北越の地、柏崎の極楽寺においてその偉大なる生涯が終えられた。
弁栄上人に師事した田中木叉は上人の『御略伝』の最後を、
「弁栄聖者の御一生は、如来光明さながらの反映に在せば、誰か大慈悲の霊応を仰がざらん。誰か光明の摂化を信ぜざらん。」 の文で結んでいる。
弁栄上人の出現はまさに新しい時代の真の光の出現を意味するものであった。
(河波昌)
以上、『山崎弁栄記念館』ホームページより抜粋
http://www.yamazakibennei-museum.com/