ご推薦

16歳のときに聖者のご遺稿に触れ

宗教法人南葵光明会  代表役員  池田和夫

従来の仏書には、大蔵経よりの抜粋のような本が多い。

しかしこれは、“現代の釈尊”と呼ばれるほど内証深かった弁栄聖者のご遺稿を、現在の佛教信者が理解できるよう、体系的に整理したものだ。

一意専心、13年間の歳月と膨大な時間を費やし、佛教専門の出版社での編集経験ある西川嘉門さんがまとめられたのだ。

ところで、「読書百遍意自ずから通ず」との諺がある。私は原稿を一読して、これなら私の生きている間に現在語訳出来そうだ、と確信した。

思えば、16歳のときに聖者のご遺稿に触れ、爾来88歳の今日まで、聖者のご遺稿を繰り返し全部拝読してきた。

さらにこの数年来は、毎日3時間以上の念仏三昧の勤行をしている。

これまでの私の人生を踏まえた上で、これの出版を、自信を持って推薦する次第である。



山崎弁栄上人を想う時、言説を超えた師の洞察力に感動を覚える

光輪寺住職  村石恵照

かって韓国で開催された日本印度学仏教学会のレジメに「仏教学栄えて仏教衰退す」という趣旨の巻頭言があったように記憶している。

仏教学において文献学が重要であることは当然のことであるが、それ以上の何かが仏教学会全体に欠けているように思える。

それは仏道における正当な直感力ということだろうと思う。

山崎弁栄上人を想う時、言説を超えた師の洞察力に感動を覚える。

生前お会いするご縁がなかったのは不徳のいたすところ。

今回師の著作集が優秀なる編集者によって編まれたことを知り、鶴首してその出版を楽しみにしている。



本著作選集を通して読者が辨榮の真実を読み取り味わうことを期待する

佛教大学名誉教授  西蓮寺住職  藤本淨彦

周知のように、日本の宗教・文化が一大転換を余儀なくされたのは江戸幕府末から明治維新を経て以後の五~八年間であった。

神仏分離から廃仏毀釈運動、そして太政官令による僧侶の肉食妻帯・平服着用許可、加えて排耶蘇論の風潮など、一八五九年(安政六)年生まれの辨榮は自らの多情多感な青年期にそのような転換の空気を体験し、一八八三(明治十六)年に二十四歳で檀林東漸寺大谷大康上人を師匠として浄土宗の伝統相承である伝宗伝戒を相承した。

辨榮は江戸時代以来の浄土宗が特色とする伝統的な檀林教育の流れのなかで浄土宗の僧侶となり、浄土宗の布教者として生涯を教化伝道に生きたと言える。

例えば、浄土宗は大正六年四月に教令第十二号で地方の教勢を審察し振興の方法を攻究し地方布教を奨励し布教使の誘導に努める者十七人を任命したが、その中に山崎辨榮の名がある。

布教者山崎辨榮の説教は、大別して聴聞者が筆記した記録類と直筆書簡類とによって残されており、現在も読み味わうことができる。

記録集成は辨榮在世の大正八年創刊から辨榮遷化の大正九年十二月を経て昭和九年十二月号発行まで毎月刊行された『ミオヤの光』所収と十二光仏各々等の書名で編集刊行された『光明体系』とがあり、直筆書簡集成は昭和四十四年五月発行の山本空外編『辨榮上人書簡集』があり辨榮の著作・口述活動の時系列整理ができる。

両者を相互照合することによって辨榮理解がよりいっそう正確さを得ることになる。

第1巻の「如来」は、Ⅰ自覚の曙光、Ⅱ如来、Ⅲ人生の帰趣、Ⅳ生命と万有、という四部構成である。

内容となる資料は、右に紹介した『ミオヤの光』や十二光仏などを収める『光明体系』からの抜粋である。各部ともに編集者の意図で括られ、具体的な見出しが付されているので読者の理解にとって軽便である

しかしながら、法然上人を師と仰ぎ、師の言葉「ただ一向に念仏すべし」を自らの血とし肉とする念仏者である辨榮の“ことば”に触れようとする者には、念仏申すという信仰実践の中でその“ことば”を受けとめ味わうことが求められる。

すなわち、単なる概念用語としての理解は誤解を招くことになろう。それほどに体験的深みから真理を語る辨榮の言行は、今日に至るまで多くの人々に救いをもたらした。

その言行をめぐって様々な評価が頻発するのであるが、辨榮滅後百年を迎える現今に、辨榮が語る“ことば”の生まれ故郷へと追体験する姿勢を通して“辨榮のことばを読む”ことを提案したい。

法然上人が「ただ一向に念仏すべし」と呼びかける彼方には「往生の業には念仏を先とする」ことがある。

辨榮は法然上人の念仏の真実をすべて受け入れる態勢において「自行化他ただ念仏を縡(こと)とす」る生き方に徹したゆえに、「念仏を先とする」体験がもたらす不求自得(求めずして自ずから得られる)の境地、すなわち三昧発得を語るのである。

「ただ一向に念仏する」ことによって求めずして得られる境地(三昧発得)は念仏の究極目的ではない。

それは法然が強調してやまない“口称念仏の優勝性(他の行より優れ勝っていること)”を物語ることであり、辨榮においても法然上人とまったく同様に「(浄土)往生の業」としての念仏であることを強調しなければならない。

それらを含蓄する意味において、死生を貫く“光明の生活”と言い得ようか。

辨榮の“ことば”が用語解説的な理解になることなく、一方で、念仏することが個我的体験の連鎖に陥ることがないように心がけたいものである。

特に現代の学問傾向が客観的・科学的という価値方向を取るがゆえに、「念仏をする」というような主体的・体験的事象が等閑視ないしは批判される風潮のなかで、辨榮の念仏体験とそれゆえに発せられる“ことば”の重厚さこそが再び注目されるべきである。

その意味で、本著作選集を通して読者が辨榮の真実を読み取り味わうことを期待する。



聖書のメッセージの真実も以前より深く理解できるようになった

玉本三和

弁栄上人は、そのお教えをすべての人に開かれたものとした、その自由性と普遍性がとても素晴らしいと思っています。

お念仏という行を、浄土宗だけでなく全ての宗派の人に開かれ、仏教の哲学・悟りをキリスト教的な表現や西洋哲学までも用いて説かれた、そのため仏教各派のみならずくキリスト教の方々までがお弟子さんにいらっしゃったそうです。

私の学びは本当に僅かですが、お教えを通して、仏教だけでなく聖書のメッセージの真実も以前より深く理解できるようになったと感じ、驚き、また心から感謝しています。

現在ヨーロッパに住んでいますが、いつかこちらの人々と弁栄上人が説かれた仏教の霊性と悟りをともに学び分かち合えることを夢見ています。

この著作集の出版はその大切な礎石です。人生における自他の霊性の目覚めと成長を真摯に探し求めている人は、宗派・宗教問わず、上人の教えに触れることが豊かな学びとなることと確信します。